「恐れに縛られた不自由」創世記38章

 この章は暗い話が続きます。「そのころのことであった」というのは、このヨセフを売り飛ばして父を欺いたときです。ヨセフを売ろうと言い出したのは「ユダ」です。兄弟はなじり合い、責任を押し付け合い、亀裂を生んだことでしょう。トラブルや恐れ、不自由や窮屈。場を変えれば解決するでしょうか。
 ユダは兄弟に守られていたところから、タガが外れてしまうところに身を置きました。
隙が生まれ、その隙が拡がります。カナン人の娘をめとり、生まれた3人の息子たち。長男エルは主の目に悪しき者であったので、主は彼を殺されます。次男オナンが後妻ならぬ後夫としてタマルのところへ入りますが、みこころを損ない殺されます。これは大きな警告です。ユダとその家族の中に次第に神のみこころを求めるところから遠ざかっていたのです。向かうべきは悔い改め。しかし、タマルを疫病神にし、追い出して、自らの罪に向き合い、悔い改めようとはしません。
 ときに、羊の毛を刈りにティムナに上るユダの前にタマルは遊女のふりをしてユダを誘います。全くもって不道徳なことです。裏口でありウソです。父を欺いたユダが今度は自分自身が欺かれます。ユダは自分の過ちを知らされます。ここにきてようやく、自分の非を認めざるを得ないところに置かれました。だからといって、これが解決するのはまだ先です。少なくとも、自らの姿に向かわざるを得なくなったところにユダは立ったのです。
 この記録は読む者たちに何を問いかけているのでしょうか。その一つは「恐れがもたらす不自由」です。イエス様は「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」(ヨハネ8:32)と仰いました。何が私たちを不自由にするのか、それは罪です。そして人を縛ります。真理とは神の恵みによって赦され、神のみこころを喜びとして生きる自由です。あなたはどうでしょうか。