「恥じることなど何もない」1ペテロ4:12-16

 クリスチャンになれば、キリストを信じるならば、何もかも解決し、すべてがうまくいく。必ずしもそうではありません。むしろ、キリスト者になったがゆえの苦しみや試練を経験するようになる。何のためでしょうか。

 ペテロは、その試練は「燃えさかる火の試練」だと言います。初代教会でペテロが経験したこともそうでした。迫害が始まり、投獄、脅し、殉教が起こります。エルサレムを追われ、聖徒たちは散らされます。どれもが燃えさかる火のように自分ではコントロールできないことです。しかし、その経験を通ってきたペテロがここで語るのです。それは、何か思いがけないことが起こったわけではなく、みな「試み」です。試練を通して、むしろ、彼らの信仰が奮い立たされ、確信深まることとなりました。

 私たちにとって、苦しみ、試みのときに一番つらいことは、誰もわかってくれない、ひとりぼっちということではないでしょうか。イエス様の受難、弟子たちに裏切られ、最期には「我が神、我が神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたのは、永遠から永遠に、父と一つであったイエスが、ここで父なる神と絶たれるという誰も経験したことのない深い痛みの言葉です。私たちが試みに遭うとき、私たちも、受難のイエスの愛の深さを味わい、むしろ喜ぶのです。

 私たちが恥を覚えること、それは人と違っていて目立ったりすることです。キリスト者であるということ、それは人と違う生き方を選ぶことです。そこに試練のときも必ず通る道です。しかし、それは「栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。」とあるように支えもまたともに与えらます。そして、救いの神をあがめるのです。