割り切れないことと謙遜

 今週はうるう年の2月29日があります。地球が太陽の回りを一周するのには約365.24219日かかるそうです。私たちが使っているのは1582年にローマ教皇グレゴリウス13世が導入したグレゴリオ暦です。それまで使われていたのは45年に皇帝ユリウスが施行したユリウス暦です。ユリウス暦は年11分間違えて計算したため、それが年を重ねに重ねて暦のズレが10日にもなったからです。
 それら太陽暦とは違って月の満ち欠けの周期をもとにしたのが太陰暦です。その一年は約354.36707日。これは季節がズレるため、うるう月を設けます。潮の満ち引きと関わるため、海に関わる人の間では欠かせない暦の読み方でもあります。これと同じように割り切れない世界は音楽の世界です。1オクターブ、ドからドまでは、半音ずつ、12音階があります。ところが、このオクターブはやっぱり割り切れません。そのずれを均したのを平均律と言いますが、それを5、7,12、17,19…と等分する平均律もあります。音楽の世界、ドレミファソラシドだけではないのです。
 あぁ、割り切れない。スパッといかないのは、この世の常なのですが、どこかスパッと割切りたいと思うのもまたこの世の常。それはどこかで不合理だ!不条理だ!理不尽だとつぶやく私たちの心の在り様のように思うのは飛躍しすぎているでしょうか。神にとっては「すべてがよかった」というのが創造の世界なのです。暦も潮の満ち引きもすべてをお造りになった神にとっては完全なのです。
 私たち被造物が己の限りを知ることは大切なことです。どこか思い上がって、知を極めるなどということはできないはずです。ソロモンの「レバノンにある杉の木から、石垣に生えるヒソプに至るまでの草木について語り、獣、鳥、這うもの、そして魚についても語った」という知識と知恵、そこに傲りが見え隠れしないでしょうか。まだまだ知らないことがあるという謙遜を覚えたいものです。