姦淫ということば、日常で耳にすることはありません。淫行、セクハラ、ストーカー、それは毎日どこかで耳にします。汚いものにでも触れたような嫌悪感を覚えることもありましょう。従軍慰安婦、それはまた国の責任はどうかと問いかけることもあるでしょう。でも、それは己の身に置き換えて問わなければならない。聞いているが他人事ではない。あなた自身を問えと主は仰るのです。
性という漢字、それは生きる心と書きます。生きることと男であること、女であることは切り離せません。殺してはならないという戒めが私たちの心の動機を問うものなら、姦淫してはならないという戒めは私たちのからだに問いかけます。突き動かす衝動、欲望、それはどうにも御しがたいものだからです。性欲、それは本来きよいもの、私たちが一つになりたいという憧れです。一方で情欲、それは自分のものにしたいという愛から離れているかを測るバロメーターです。
主がここで求められたこと、それは「心のきよい者は幸いです」、から一歩進んでからだの聖さを保つこと。ダビデは目で見て誘惑され、手で罪に染めました。その彼は詩篇51篇で祈り求めるのです。私は生まれながらの罪人。悔い改めます、どうかきよい心を造ってくださいと。それは、どのようにしてできるでしょうか。
1コリント6章に教えられているのは、私たちが聖霊の宮であることをわきまえろということです。そして、そのために代価を払って買い取られたのだと言うのです。だから、捨てるべきものがある。からだに餌を与えて欲望を肥え太らせてはならないのです。聖霊の宮にふさわしからざるものを捨てることです。そして主の宮にふさわしくあろうではありませんか。