「救いの目的」エペソ1:3-7

 礼拝についてしばらく一緒に学んでいきます。私たちは礼拝というとどうしてもプログラムであるとか、形を考えますが、礼拝とは何ですかと問われたとき、明確な答えを持っているでしょうか。礼拝の心、姿勢、神のみこころを聖書の中に確かめていきましょう。

 パウロはここで、神への賛美と私たちへの祝福とを同時に書きます。この二つは切っても切り離せません。私たち人を創造されたとき、神は人をご自身のかたちに造られたと創世記に記されています。三位一体の神は永遠から永遠に三つの位格を持ちながらも、愛によて一つに結ばれているお方です。それを分かち合い、喜びたい。そのために人を造られたのです。ですから、私たち人も、愛によって一つにされるという祝福の器としてここに置かれているのです。

 ですから、神様の造られたものはすべて最高によいのです。あなたの夫、妻、子どもたち、そう思っていますか。ドキッとする問いですが、そう思ってないとしたら、どこかがズレています。そう信じ生きるなら、私たちは祝福の器ですが、一つになれない闇、バラバラになっているとしたら、神の祝福から外れ、ズレた罪の中にいるのです。

 しかし、「神はキリストにあって」祝福してくださいました。それは、十字架の血潮によって私たちがそこから贖い出されて新しい歩みに与る祝福に入れられたのです。それは

「御前に聖なる、傷のない者にしようとされた」のです。義と認め、さらに聖化してくださるのです。その神の恵みをムダにしてはいないでしょうか。私たちが神のかたちに回復して愛によって一致を生み出すなら、それこそが神がほめたたえることです。

 礼拝、それは、私たちがキリストにある神の祝福に心を留めて、応答することです。愛と一致を生み出していくことです。そのようにして、神をたたえることなのです。