「新しい人を着る」コロサイ3:1-17

 「着る」ことは、とても象徴的なことです。人が最初に身に着けたもの。それはイチジクの葉。人が堕落した途端、裸を知り、覆い始めるのです。まったく隔てのない交わりの中にあった彼らの間に壁ができてしまいました。神は彼らに皮の衣を着せてくださいました。イチジクの葉はすぐに破れ去ってしまうもの。そこに起こる心は「どうせ、やっぱり、しょせん」というような思いです。神が着せてくださるのは新しい人です。

 パウロはここ3章で、「あなた」ではなく、「あなたがた」と複数形の呼びかけをしています。古い人は自分が中心であり、自分のことで精一杯です。しかし、新しい人は一人一人に対する主の応答が求められていますが、教会を形づくる、常に交わりを中心にものごとを考えるようになります。

 古い人は人を区別し、差別し、レッテルを貼ってさばきます。しかし、パウロはここで「ギリシヤ人とユダヤ人、割礼の有無、未開人、スクテヤ人、奴隷と自由人というような区別はない」と教えます。それが取り払われて、「あなたがたも召されて一体となった」(15)と教えます。新しい人、それは様々な私たちの偏見、それは長い歴史の中からだに染みついたような差別意識、置かれた立場の違いなど様々な隔てを乗り越えるのです。

 パウロは続けて勧めます。身につけるべきもの、結びの帯としての愛。「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(15)、「キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ」(16)、「あなたがたのすることは・・・すべて主イエスの名によってなし・・・」(17)古いひとを捨て去り、新しい人、神が与えてくださったキリストを着た。それにふさわしい生き方を喜びささげようではありませんか。