心の貧しい者、悲しむ者、それは自分の内側に目を向けるものでしたが、柔和な者、それは他者との関係に関心が移ります。その対極にあるのは、力ずくの世界です。カインがアベルを殺したとき、「罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」と問いかけられますが、押さえきれず力ずくでした。
柔和ということばの語源は、獣が手懐けられるという意味を持っています。私たちの心は押さえ難い獣の心をもっています。思い通りにしたい。そうならない。面白くない。あいつさえいなければと思ったカインと同じように、心を手懐けることができず、力ずくでことを運びぶのです。
柔和ということば、マタイ11章では「心優しく」と訳されています。「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」「優しい」ということば、それは古語の「やさし」に由来し、「やせる」と共通の語源を持つそうです。優しいとは、やせる思いで自分の身を削って相手のために尽くすこと。それなら自分の身を削ってならぬ、十字架でいのちを捨てられた。そのようにイエス様は心優しくあられたということです。
「わたしのくびきを負って」とは、常にこのイエス様の愛を掛けて生きるということです。もはや獣ではありません。このくびきを掛けられ、御していただける。そのときに地を受け継ぐのです。それはどんな場所、どんな状況の中にあっても、満ち足りること、「置かれた場所で咲く」ことです。主よ。あなたのもとに荒ぶる獣を御し、あなたのくびきに導かれて、生きる者として下さいと祈ろうではありませんか。