会堂司のヤイロ、その務めは町の顔役であり、社会的にも地位のある人でした。娘が病で死にかかっている。そうまでなるまでに、できることならどんなことでもしたことでしょう。しかし、なすすべがないのです。彼は、いままでイエスのなさったこと、その一部始終を見聞きしてきたことでしょう。そして、イエスをお連れすればいやされると信じ、イエスの前に進み出てひれ伏し懇願するのです。
ヤイロの家に向かう途上、長血の女がイエスの衣のすそに触りいやされるという出来事がありました。そうこうしているうちに、「お嬢さんは亡くなりました。これ以上、先生を煩わすことがあるでしょうか。」と知らせが届きます。一縷の望みももはや消えてしまった。心が折れる知らせです。ところが、その知らせを「そばで聞き」、イエス様はおっしゃるのです。「恐れないで、ただ信じていなさい。」 周りのすべての声は「雑音」として聞き流すべきことなのです。
彼の家に着くやいなや、再び雑音が飛び込んできます。人々が取り乱して、大声で泣いたりわめいたりしているのです。しかし、ここでイエス様は仰います。「どうして取り乱したり、泣いたりしているのですか。その子は死んだのではありません。眠っているのです。」人々のあざ笑う声が聞こえてくる中、皆を外に出し、子どもの父と母と、ご自分の供の者たちだけを連れて、その子のいるところに入って行かれました。再び、雑音を消すためです。イエスさまが、子どもの手を取って「タリタ、クム。」と言われると、少女はすぐに起き上がり、よみがえりをいただくのです。
この出来事は私たちとって、もう一つの希望を与えてくれます。それは死が終わりではないという希望です。「恐れないでただ信じていない」そのことばを胸に、世の雑音に惑わされることのない希望をしっかり握りしめようではありませんか。