どうにもならない時、私たちはなりふり構わず求め、捜し、叩きます。このことばは、そのようなときに私たちの願いが叶うとか、あるいは心くじけないことだとか、道が開けていくものだとか、キリスト者でなくても使われることのあることばです。しかし、何を誰に願い、何をいただけるのか。前後の関わりの中で理解することが大切です。
山上の説教の中でイエスが教えられたのは神の国とその義を第一とすることでした。それに先だって、あなたの宝は何ですか、心配や思い煩いで心がいっぱいになってはいませんかと問いかけました。さらに、人の目のちりが気になってさばいたりする前に自分の目の梁を取りのけて、犬に聖なるもの、豚に真珠のように招かれている恵みを忘れてはいませんかと問いかけられました。神のご支配を喜び信じ、それにふさわしく御霊に導かれる義なる聖い歩みを求めるのです。
それを願い求めるのは、父なる神です。地上の限りある父親ですら、よいものを与えるのですから、まして天の父です。6章で祈りについて教えられたイエスは、同じことばを繰り返す異邦人の祈りや見せかけの祈りではなく、「天の父」と呼びかけることを教えてくださいました。ここでも「天の父」です。それは、子として親しく、必ず聞いて下さることを信じ願うように招かれているのです。
天の父が備えてくださる祈りの結果はどんなことでしょうか。ニューヨークのリハビリテーション病院の壁に書かれてた祈りのことばはよく知られています。「…求めたものは一つとして与えられなかったが、願いはすべて聞き届けられた…私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。」私たちの願い以上に、神はご自身の最善をなしてくださる。その御前に求め、捜し、叩くのです。