世の光、主イエスの到来

 いったい自分はどこにいるのか、いつになったら出口が見えるのか、進んでいるのか戻っているのか、何が向こうにあるか、一歩先がどうなっているのかもわからない。暗やみでは何もわかりません。私たちにはどうしても光が必要です。

 人が得る情報は、五感は視覚87%、聴覚7%、触覚3%、嗅覚2%、味覚1%だと言われます。圧倒的に視覚です。考えてみれば、何かが聞こえればそちらを見、触る前、食べる前には必ず目で確認して、危なくないか、食べられるのか、食べられないのか、一つ一つ確かめます。目をつぶったままで口に何かを入れるのは恐いものです。また、説明つかないことには、「とにかく見ればわかるから」と私たちは言います。

 目は口ほどにものを言うとも言い、目つきで人がどんな思いでいるのかを私たちは感じ取ります。やさしいまなざし、暖かなまなざし、細やかな目配りの行き届いた配慮。一方で反抗的な目つき、攻撃心むき出しの眼光、あるいは、無気力な死んだ魚のような目、視線をそらす通じない心。私たちは見ることで判断し、ことを見分けます。

 そこに光が当てられなければ何もわかりません。見えないのです。世は華やかに映っていても、何でもわかっているように見えても隠れた暗やみがある。いや、むしろ暗やみに隠してしまうことの何と多いことでしょうか。本当のところどうなのか。隠してしまい、明るみにでることを恐れるのです。

 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8:12)と言われるお方が私たちのところに来てくださった。それは、私の隅々までを照らし、暗やみを取り去り、光の中を歩ませていただくことなのです。