「心は言葉にしなければ伝わらない。言葉は行動によって証明しなければ意味がない」そういうものです。神はその熱い思いを預言者を通して語ってきました。そしてその言葉通りに真実尽くしてくださいます。「天地は消え去ります。しかし、わたしのことばは決して消え去ることがありません」(31)のことばは何を問いかけているでしょう。
第一にそれは教会にとっての「いのち」であるということです。私たちの信仰生活は毎日の連続です。初代教会においてその生活にトラブルが起こったのは日々の食べることについてです。たかが食べ物、されど食べ物です。その時の解決は「私たちが神のことばを後回しにして、食卓のことに仕えるのは良くありません…私たちは祈りと、みことばの奉仕に専念します。」(使徒6:2-4)と執事を選び、みことばこそ第一のものとしました。私たちは目の前に起こることに翻弄されます。しかし、第一のものが第一とされるときに順にそれ以外のものも整っていくのです。
「いちじくの木から教訓を学びなさい…」それは毎日、観察していないと瞬く間に時期を逸してしまうことへの警告、それと同じように「人の子が戸口まで近づいている」、すぐに主がやってくる。だから、備えせよということです。時が迫っている今、いつでも、どんなときにも、主をお迎えするにふさわしく整えていなさいと言われるのです。
そのようにみことばに生きて整えるとはみことばが行動となるように生きることです。コロナ禍で、ときに厳しいことばが飛び交います。何と私たちは人を責めやすく、さばきやすく、あわれみを欠いたことばを口にすることでしょうか。本当に大切なことよりも、どちらでもいいことに執着し、翻弄されてしまいます。戸口に立つ主を迎えるにふさわしくみことばに照らし、自らを吟味して歩もうではありませんか。