ベタニヤのマルタとマリア、その兄弟のラザロが病気にかかりました。イエスを呼びに行っている間に、ラザロは死んでしまいます。イエスが来られると二人は出迎えるマリヤ、家にいたマリアと行動は分かれます。しかし、口にすることばは同じです。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」でも、もう戻れない。そう思っているのです。人が死を前にしたとき、繋いできた望みも絶たれます。そして、死は終わりなのかという不安、交わりと絶たれる喪失、いのちの意味を問う問いが思いを覆います。
マルタとのやりとり、マリアとのやりとり、そこに死を前に涙する人々を前にイエスは「霊に憤りを覚え、心を騒がせ」ます。どういうことでしょうか。17:5に「世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください」というイエスの祈りがでてきます。その栄光、愛と一致と喜びの栄光です。それが今や希望のない涙、暗やみに覆われてしまっていることへの憤りです。そして、心騒がすとは、どうにかしなければならないというイエスのいても立ってもいられないもどかしさを覚える思いでしょう。
墓に行くと、つぶやく人たちがいる前でイエスは、「信じるなら神の栄光を見る」と繰り返し、ラザロはよみがえらせます。それは、私たちに与えられているよみがえりの確証です。やがて入れられる復活の希望です。そこでは、「彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。」(黙示録21:4)とある信じる者に当たられる希望です。それは、ご自身のよみがえりだけではない。信じる者には誰にでも与えられるという証しなのです。
今、この世にあっては様々な苦しみ悩みは尽きません。涙流すことも少なくありません。しかし、このよみがえりにこそ、確かな希望がある。あなたも「信じますか?」