ペテロはこの手紙で今一度問いかけるのは「純真な心を奮い立たせる」ことです。キリスト者生活を続けていると、恵みのありがたみを忘れ、惰性で歩み、喜びを失うような歩みになることがあるのです。離散のキリスト者が圧倒的な世の力の中での戦いに敗れないために励ましているのです。
純真ということば、それは元来「日の光に試される」という語源を持っています。ヨハネ1章には、「すべての人を照らすそのまことの光」としてのイエスの現れについて語っています。光に照らされるときに、隠れていたものはみな明るみに出されます。罪汚れが明るみに出されたとき、主イエスの十字架の血潮によって赦され、きよめられた。その時私たちはきよく生きようと新しい心をいただいたはずです。それを奮い立たせるのです。
「あのポプラの上が空」という三浦綾子さんの小説があります。薬局と病院を営む家族が薬物に染まっていた話です。夫婦の間にどうしても赦せぬ思いが挟まる。戦争から帰ってきた夫に「あなたきれい?」と訊く妻に答えられず、赦せぬ妻はその苦しさを紛らわすためにクスリを使うのです。家族の中に日を当てられぬ闇が覆うのです。そう聞かれたとき、誰もが闇を抱えている。でも、それは主イエスにあって赦されたのです。
それでも、その恵みの大きさを忘れる偽が紛れ込んでくる。神のさばきへの恐れが欠落してしまう。ペテロは預言者たち、つまり旧約聖書の教えと、主であり救い主である方の命令とを思い起こさせることをして、純真な心を奮い立たせたいと言います。そうです。主への恐れと、十字架の血潮ゆえの赦しの恵みに立ち返り、日々悔い改めることこそ、純真な心を奮い立たせることです。主の御前に光に照らされて歩もうではありませんか。