救い主の誕生であるクリスマス。その始まりはわずかな人たちに知らされた「福音」でした。ヨセフとマリアという若い夫婦、貧しい羊飼いたち、遠く離れた東方の博士たち、神殿に使える老いたシメオンと老やもめアンナ。彼らは何の力もない小さな赤ちゃんこそが神の与えたもうた希望の光であることを知らされて、喜び迎えました。すべてがわかったわけではない。けれど、その始まりを見ただけで、彼らは希望に満たされたのです。
一方、時の権力者ヘロデ王にとっては「災難」でした。周りを蹴落とし、時に身内さえも疑い殺し、登り詰めた「大王」の称号。それを脅かす者が表れたのです。現れたと言ってもそれは幼子に過ぎません。何をそんなに恐れているのでしょうか。それは自分の手にしているものを失う恐れです。
私たちはこの世に何一つ持って生まれてきたわけではありません。ヨブが「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。」(ヨブ1:21)と言った通りです。ところが、多くを持つようになると、持てば持つほど、人は守りに入り、失うことへの恐れを持つようになります。「大王」ならずとも、そのような恐れがありはしないでしょうか。
今年の漢字として選ばれたのが「災」です。確かに、多くの「災」が列島を襲い、多くを失いました。それは他人事ではありません。あなたが恐れていることは何ですか。それは普段は自分でも気がつかないでいることかもしれません。失ってはじめてわかることなのかもしれません。
クリスマス、それはこのイエスを喜んで受け入れるか否かを問いかけます。二つに一つです。そして、もし喜んで受け入れるのであれば、そこには、何を失っても余りある、「福音」、赦しと愛と永遠のいのちの希望があるのだということを深く心に刻みたいと思うのです。