私たちはそこに真実があろうとも、心の目に覆いがかかっていてわからないことがあるものです。震災後、その対応を巡ってあきれた対応をした人たちがいました。そして残念ながらいまだそのままです。人が生きるか死ぬかというときに、自らの保身を図り、組織やきまりを優先する人たちです。イザヤ書では「戒めに戒め、規則に規則、ここに少し、あそこに少し」と主は語り、イエス様は律法学者たちの生き方にいのちや愛、真実がないことに対決されました。
サウロはその生き方の代表でした。ピリピ3章では「律法による義についてならば非難されるところがない」とまで言うのです。生まれ育ちから受けた教育、行いについてまですべてが誇りでありプライドでした。それが光に打たれて目が見えない。人に手を引かれていくしかないという経験の中ではじめて真実と向き合い、悔い改めに導かれたのです。
それは人間が徹底して罪人だということです。どこまでいっても、どんなに努力を重ねても、頭の先からつま先まで罪人です。それが砕かれるには、自分ではどうにもならないことを認めなければなりません。彼はそのことを問われ、目からうろこが落ちたのです。今、私たちの国の置かれている状況は、人の努力によってしてだけではどうにもならない状況ではないでしょうか。それともまだ見えていないでしょうか。今私たちは神の問いかけを真摯に受け止めなければなりません。
どこから始めるべきでしょうか。人の目のゴミからではなく、まず自分の目の梁を取り除くことからです。自らが真の悔い改めに導かれてはじめて、へりくだる謙遜をいただくことができます。そして神のみこころを、我が心とさせて下さいと常に祈り、新しいいのちを生きることができるのです。
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