年輪が語ることに耳を傾けて

 からだのあちこちが傷み始めて、自分が中年ということをいやでも認めなければならなくなった今、でも心だけは若い日のままでいるつもりです。ところがお年寄りの話しを伺っていると、みな同じことを言うのです。
「18のとき、少年のままの心のでいるのに、からだが言うこと聞かなくなっちまった。」
「心は二十歳の娘のときのままだけれど、こんなにおばあちゃんになっちゃった。」
 人生は私たちが思っているほど長くありません。「気が付いてみればこの年」と誰もが経験します。若い時には考えもしないのですが、みな一様にそう言うのです。そして、この先の残りを考えれば、何をなすべきか、何ができるのか。今のうちに言っておかなければ、今のうちに伝えておかなければと考えることが必ずあるはずです。戦争の記憶などはその一つで、つらい経験であるために思い出したくない、心に封印しておいたものを、今語り伝えなければ、もう誰も知らない世代になってしまう。勇気をもって口にする人たちが出てきます。一昔前の日本の家族は大家族で、年寄りには年寄りの居場所や役割がありました。ところが、核家族が主流となってしまった今の家族の中では残念ながら、その機会は多くありません。
 先日82才の牧師にお会いする機会がありました。お会いしてみるとビックリ。頭脳明晰、思考柔軟、謙遜柔和に明朗快活。ああなりたいと思う先生でした。一方でからだはもう限りがあって、できること、できないことをはっきり自覚なさっておられました。
 年輪を重ねたことばには力があります。口先だけではない、豊かな経験に裏付けられた真実があるからです。「長生きしてね」だけではなく、その知恵に耳を傾け、その経験を引き出していくことで、いのちの喜びをともにしたいと思うのです。