イスラエルの三代目の王、ダビデの子ソロモンの始まりです。王になった彼の夢に主が現れ、「あなたに何を与えようか。願え」と言うのです。ソロモンは民を治めるための判断力、知恵を求めました。それは主のみこころにかない、そればかりではなく、富みも誉れも与えられます。
その知恵は類い稀なものでした。知恵文学と呼ばれる箴言の多くに彼の名が冠せられ、伝道者の書も直接の著作であると記されていませんが、その内容がソロモン由来としか考えられないような経験と知恵が記されています。また、周辺諸国からその知恵を求めて謁見が求められました。そしてこの1列王記も続くところにその知恵の実際、小さな赤ちゃんを巡って、自分の子だと言い争う女たちの真の母親を見分けたすぐれた知恵が記録されています。
そのすべては主に与えられた賜物、ギフトです。世は自分の能力、経験、スキルを求めます。しかし、信仰者にとってはすべてのものが神に与えられた賜物だと受けとめることが大切です。一方、1コリント12章には、様々な御霊の賜物について教えています。なぜならそこに混乱があったからです。賜物はキリストのからだの器官としてそれぞれに分け与えられたものであることをわきまえないときに誇りとさばきに使ってしまうからです。
1コリント書は「さらにまさる道」として愛を教えます。1ペテロ4章でも「愛し合うこと」に続いて賜物をもって仕え合うことを教えています。そして、「弱さ」ですら、労り合う愛のために用いられるのです。ソロモンの始まりは神に与えられた賜物であることをわきまえて謙遜になって仕えるよい始まりだったにもかかわらず、やがて権力と力という魔物に飲み込まれてしまいます。すべてのことが主に与えられた賜物であることを感謝し、謙遜に互いのために愛をもって仕え合う歩みをともに築いていこうではありませんか。