あなたの宝は何か?という迫りに続いてイエス様は私たちの心配する心についてチャレンジを与えます。心配と訳されることばは、思い煩い、思い悩みとも訳されています。心が定まらずグラグラと揺り動かされていることです。その心配とは主の祈りで教えられた「日ごとの糧」です。ルターは食べる飲むだけではなく、私たちの必要すべてに関わることだと教えました。
そのような心のチャレンジを受けた中にサウル王がいます。1サムエル13章、読んでいただきますと、ペリシテ人が圧倒的な兵力で戦の備えをしている様がでてきます。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民。イスラエルの民は恐れを抱いて逃げ惑います。中にはヨルダン川を渡ってガドやギルアデの地に避ける者たちまで。まさに難民。しかも、頼りにしている預言者サムエルが来ない。民は自分から離れていこうとする。彼は心から主に頼ることよりも、いけにえの儀式をするのです。主が求められるのは、いけにではなく信仰です。彼の心は目の前のことのみに囚われて信仰の目を失ってしまうのです。それが悲しいかな不信仰な姿です。
山上の宣教に戻ると、そんな者たちに空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。それよりもすぐれたあなた方。自分では命を延ばすこともできない。神が命を与え生かしておられるあなた方。どうしてそんなに信仰が薄いのかと問いかけられます。
そして、心定めるべきところは、「あなたがの天の父」。「それがみなあなたがたに必要であることを知っておられる」と言うのです。そこから目を離したら惑わされるのです。あなたの心の向かうところ、どんな心配事が起こっても、このお方から目を離さないで歩もうではありませんか。