「私たちの信仰と愛が用いられる」ルツ1:6-14

 「お役に立ちたい」と願いつつ、何もできない事が多々あります。試練にお襲われれば、「私なんか、神さまや他者に対しても何もできない」とガッカリしてしまうことがあります。しかし、そんな私たちをも神が用いてくださいます。
  夫たちに先立たれたナオミとモアブ人のお嫁さんたちは、ベツレヘムに行くことになりました。1章6~13節には、旅路での三人の対話が記されていて、特にナオミの信仰と愛に注目させられます。
 ナオミは異教徒モアブの女性たちに祝福を祈ります。そこに「イスラエルの神は異教徒の生活をも顧みてくださる」という、愛の神への信仰を見て取れます。また、一連の悲劇は「主の御手が私の上に下ったから」(13節)と言い、主権者であり、厳しいお取り扱いもする神を信じていたことが分かります。彼女は「主は与え、主は取られたもう」という神への健全な信仰がありました。
 この神への信仰は、他者への愛を生み出します。二人がベツレヘムに来てくれるのは、ナオミにとってありがたいことです。しかし、高齢の自分が抱えている問題や、異教徒がイスラエルで生活するハンデキャップを考慮して、ナオミは二人と分かれることを提案します。ナオミ自身も助けと励ましを必要としているのに、ナオミは彼女たちの幸福のために、自分の不利益を選び取ります。そこには彼女たちへの愛があります。このような愛は、愛の神と主権者なる神を信じる信仰から出てきたと考えられます。
 そして、このナオミの信仰と愛を用いて、主はルツを信仰に導かれました。この導きは今も変わりません。欠けと傷だらけの私たちですが、「イエスは私の主」という信仰が与えられています。何もできない私たちの信仰と愛を用いて、今も神は御業を進めてくださいます。この神を感謝しつつ、互いの主への信頼と愛を求めていきましょう。