「義に餓え渇くなら」

 多くの人は夢が叶うことを「幸せ」と表現します。しかしながら、私たち人間の夢ははかなく、叶ったと思った先から崩れていくような脆く、はかないものであることが少なくありません。ここで語られる「幸い」とは自分で獲得するものではなく、神から与えられる祝福です。そして、飢え渇きとは、それなくして生きられない、そういうものです。

 その第一は義認です。ルカ18章でイエスはパリサイ人と取税人の祈りを通して「義とされる」ことについて教えています。パリサイ人の祈り、それは人と比較し、優越感という誇りとプライドで自分を支える人です。一方で取税人、彼は「こんな罪人の私をあわれんでください。』と自ら心貧しい、悲しむべき罪人であることを告白する人です。その人こそ義認の祝福をいただく人なのです。

 もう一つは聖化です。ルターは信仰義認を語りました。しかし人は、それではどんなことでも赦されると聖さから遠ざかります。ウエスレーはきよめを語りました。それはまた逆に恵みではなく努力を絶対とする方向に振れやすいのです。

 薬物依存者は、一人で居るとクスリをまたやってしまいます。必要なのは一緒に住む仲間です。1コリント6:19には、「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮である」と書かれています。そう、聖霊に住んでいただくのです。私はあくまで罪人です。一人では再び罪の泥沼に引き戻され、内に住み着いているのは獣です。キリストがこんな者の内に共に住んでくださるようにと場所を空けるなら、そうでなければ生きては行かないからと飢え渇くなら、最初は荒々しかった獣も聖められていくのです。主よ。私の内に住み、私を聖い者に造り変えてくださいと祈りましょう。

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