「私たちを試みに合わせないで、悪からお救いください。」この祈りは私たちが誘惑から守られ、引きずり下ろす闇の力に打ち勝つことができるようにという祈りの向きとともに、もう一つの向き、聖さを求めることを祈る祈りでもあります。
聖書はしばしば私たちに努力を教えます。ピリピ2:12は「恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさい…すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい」と勧め、2ペテロ2章では、「あなたはたはあらゆる努力をして、信仰には徳を、徳には知識を…愛を加えない」と教えられています。また、主はこの山上の説教の中で、「天の父が完全なように、完全でありなさい」とも勧めます。一方、私たちの心にはどこかで、「でも、所詮、やっぱり、ムリと」言い訳する思いが残ります。
リバイバルの時代、ウエスレーはキリスト者の完全とは、「悪しき気質や愛に反するいかなるものも魂の内に残存していないこと。すべての思いと言葉と行動が純粋な愛によって支配されていることを意味する」と定義しました。特別な聖霊体験でそのような思いに満たされるような人たちがいたからです。その前の時代はルターの宗教改革。信仰のみ聖書のみ。それは恵みに安住し、どうせ罪人、すべて赦されるならと聖さを求めない極端に走ることがあります。聖さを求めるには特別な体験が必要なのでしょうか。
いいえ、第一コリント6:19は「私たちは代価を払って買い取られた聖霊の宮」と教えます。ですから私たちはその声を聞かせて下さいと祈るのです。聖霊が私たちにみことばを思い起こさせるとき、言い訳することなく自らを明け渡したてお従いするとき、悪から救われ、聖い歩みに導かれるのです。