神の霊感とは、「神の息が吹き込まれた」ことを意味します。それは「人間の意志によってもたらされたのではなく、聖霊に動かされた人たちが、神からのことばを語った」(2ペテロ1:21)のです。
機会霊感説、自動筆記と呼ばれるものがあります。神懸かりになって、自分の意志とは関係なく手が動きあるいは、ことばを語るものです。また、霊感とはインスピレーションと英訳されます。芸術家がひらめきで作品を書くことは少なくありません。しかし聖書は約1500年、40人以上の著者がいます。どのようにしてそれが一致するでしょうか。
聖書の中には、おおよそ人の常識では考えられないような出来事が出てきます。近代はルネッサンスから始まりました。人間回帰です。そこから啓蒙思想、産業革命と続き、人間は科学的知識を手に入れ、理性を用いてよい世界を築くことができる。それがキリスト教の世界においては、聖書の中から受け入れがたいことを排除する。そんな考え方が主流になりました。自由主義神学と呼ばれます。一方で二度の世界大戦を引き起こし、人間は自分たちの力を過信していたのではないだろうか。もう一度神は?と問い始めました。そこで起こったのが新正統主義と呼ばれる考え方です。信じがたいことはそのまま信じなくてもいい。物語の背後にある神のメッセージこそが霊感なのだという考え方です。
私たちの信仰にとって大切なのは、神のなさったみわざ、事実です。それこそが信仰の土台です。聖書は神の国の地図のようなものです。目に入ってはいるけれどわからないことがある。最初は目的地がわかればいい。そこから次第次第に理解が深められていく。だから信仰と生活の唯一絶対の規範なのです。聖書に親しみ神の祝福の道を歩みましょう。