「○○力」という言葉がよく使われるようになりました。それは生き方を示すことばですが、私たちクリスチャンにとって、それは「見分ける力」です。「聖なるものを犬に…豚に真珠」、そんな生き方になってはいないか、神に喜ばれるみこころを見分け、本当に価値あるものを見分ける霊的識別力。それがここで問われていることです。
このことばは、この前のさばきと関わりがあります。私たちの上から目線で人をさばく心の狭さと高慢、また、神にさばかれるべき自分を吟味するべきこと、それが「あなたの目の梁」でした。すると、あわれみによって赦されているあなたが、その恵みを踏みにじるようなことをしてはいないだろうかという自己吟味が問われているのです。
エペソ5章には、「愛されている子どもらしく神にならう者に…光の子らしく歩みなさい…そのためには、主に喜ばれることが何であるかを見分けなさい」という奨めのことばがでてきます。どこか「わかちゃいるけど、しょせん、やっぱり」と言い訳する思いとことばが出てくるのが私たち。だからこそ、見分ける力が問われるのです。
使徒の5章には、アナニヤとサッピラの事件がでてきます。持ち物を売って、慰めの子バルナバと呼ばれたヨセフのように、私たちも人からの称賛を得たい。彼らの心には偽りが入り込んできます。だから「あなたがたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのです」と断罪され打たれたことに、「非常な恐れが生じた」というのです。まさに「見分け力」が軽んじられ、目をくらまされ、神への恐れを失ったときに入り込んでくる偽りに対する大きな警告です。だから、神の御前に祈りたいと思うのです。主に喜ばれること、あなたのみこころを見分ける目を与えたたまえと。