「子どもたちよ。すべてのことについて両親に従いなさい」(20)という教え。少し先ですが、23節には「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」という教えられています。相手が何をしたしない、そして自分がどのような思いをしているのかが出発点ではなく、人に対してのものの見方が変わるのです。親も神の御前に互いに赦しをいただいた一人の人。当然、欠けも失敗も、間違いもたくさんある者だというものの見方でものを見るのです。ですから、「主に喜ばれるからです」これが鍵の言葉です。
次に「父たちよ、子どもたちを苛立たせてはいけません。その子たちが意欲を失わないようにするためです。」(21)苛立たせという言葉にはいろいろな訳が当てられていますが、苦々しいビターな思いをし、苛立ちをかき立てられるようなことをしないということです。最も大きな失敗例はダビデの息子たちに対する態度でしょう。アムノンは異母兄弟アブシャロムの妹タマルを辱めますが、ダビデははっきりしません。憎しみを抱えたアブシャロムはアムノンを殺して逃亡。親子関係もヒビが入り、アブシャロムは謀反の後、ダビデの部下ヨアブに殺されます。彼の役割は正しいことは正しい、悪いことは悪いとはっきり示すことでした。それをしなかったために悪い思いをかき立てたのです。
それでは何が求められているのでしょうか。それは子どもが一人の人格をもった大切ないのちであることを覚え、自分の持ち物でもなく、自分の意のままに操るのでもなく、神様に預けられていることを覚えて導くことです。古い人は思いのまま、あるいは責任から逃げます。新しい人はキリストの心で子どもを導くのです。欠けだらけ、失敗だらけの私たちは反省ばかりです。しかし、主にあっては遅すぎることは一つもない。どんな傷も痛みがあっても、よき親子の関係を取り戻していくことができる。それを信じて共に進もうではありませんか。