イエスの受洗で「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と天から伝えられて、イエスの神の子の立場と救い主としての使命が確認された。それを知っていた悪魔は3、6節の「あなたは神の子ですから」という意味合いを持つ「あなたが神の子なら」で、イエスを試みた。
それに対して、イエスは申命記6章と8章を引用して悪魔を退けた。その箇所は、神様が御自身に背いたイスラエル人に語られた神の子である人が従わなければならない教訓だった。イスラエル人は神様への従順、信頼を守ることが出来なかったが、真の神の子であるイエスはそれを全うした。
さらにイエスは御自身の十字架の死によって、人間を罪から救ってくださるのは神様のご計画であることに対する認識と、それに従う決心を試みを通して、明確に示された。
イエスは十字架に架かられる前にも、架かられている時にも、十字架の道を避けようとするように、葛藤をしたり、何回もそそのかされた。けれども、イエスは、十字架の道こそが、聖書に示された神様からの祝福といのちの道で、神の子になる人々の祝福といのちもそこにかかっていたのを知っておられた。それを全般的に受け入れ、全幅の信頼を寄せ、成し遂げようとするように、イエスはこの試みの時点ですでに決められた。
試みにあうことは望ましいことではないかもしれない。しかし、それは無駄なことでもなく、かえって、心のうちにあるものを明らかにするもので、信仰の成長の為になくてはならないものだ。神の子であるイエスは試みに打ち勝った。イエスと同じように、御言葉に堅く立ち、神様に対して、揺るぎのない信頼、従順、それに、死に迄も従う覚悟をもってたら、私たちも試みに勝てる。