マックス・ルケードの「大切なきみ」という本があります。互いを評価し合うことに疲れた木彫りの小人が自分を造った彫刻家のもとで、造り主は大切に思っていることを教えるストーリーです。私たちのいのちも神に造られたいのちです。造り主のもとに帰るならば、人の目を気にして生きる必要などないのです。「羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。」(1ペテロ2:25)とあるとおりです。
一方、祈り、それは誰に向かって祈るのかその理解が大切なことです。異邦人は繰り返し、同じ言葉で祈る。それは神が遠いからです。日本語の「カミ」の反対は「シモ」。お上には下々の思いなど伝わらない。できることといえば、ダメ元で誠意が伝わるように、あるいはコネで、繰り返し陳情・誓願続けること。やっと通じた。そんな神でしょうか。
主の祈り、その最初は「天にいます私たちの父よ」という呼びかけです。旧約聖書には「父」という呼び名は出てきません。新約聖書では、しばしばイエス様が「父」と呼びかけます。そしてそのとき、「わたしと父は一つ」、「父よ。願いを聞いて下さった」、「父よ・・・みこころのとおりに」。そのように親しく交わるお方。「お願いする先に、必要なものを知っておられる」お方。そして私たちも主イエスの贖いのゆえに、子とされているのです。
地上の父は、不在であったり、一方的であったり、どこか頑迷であったり。私たちは傷を持っています。しかし、私たちに「天にいます父」と祈るとき、それをもっともよく言い表しているのは放蕩息子のたとえでしょう。愛に満ちた、親しいお方なのです。この父に私たちは祈るのです。