「謙遜を身につける」1ペテロ5:5-6

 身に着けるという概念は新約聖書の中ではよく使われる表現です。私たちは実に様々なものを身に着けますが、身に着けたように振る舞い、あるいは生きます。私たちが謙遜を身に着けるとはどのようにしてでしょうか。

 黙示録3章には、ラオデキヤの教会に対するメッセージが出てきます。「あなたは、冷たくもなく、熱くもない・・・実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」だから「裸の恥を現さないために着る白い衣を買いなさい。」と言うのです。人が初めて身に着けたのは自分の恥を覆うためのイチジクの葉です。それはすぐにボロがでてしまう。一方神が着せてくださったのは皮の衣。尊い犠牲を払って着せられたもの。それによって覆われた者であるという自覚こそがここに求められていることなのです。

 旧約聖書には「モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。」(民数12:3)と記されています。その後にコラの事件が記録されています(民数16章)、民のリーダーであるモーセに逆らうのです。 おそらく人が最もその心を探られるときというのは、人々から文句を言われ、苦情を言われ、あるいは反抗されたり、責められたりするときでしょう。

 モーセは神の御前にひれ伏し、激する心を神に訴え、敵のためにとりなします。結果、神がなさったことは何だったでしょうか。地面が割れ、コラとその一族を飲み込んでしまいます。これが「神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。」と語られるところです。厳しい神のさばきです。一謙遜を身につける。それは徹底して罪人である自分をわきまえることです。謙遜を身につけようではありませんか。