賜物は価値なき者に与えられる賜物( n o t e )
一一死んだ犬も同然の私が、王の食卓に招かれる
Ⅱ サムエル9 : 1 – 1 3
登場人物は、主に二人
・自分のことを、8 節「死んだ犬も同然」と思っているメフィボシェト
・その彼を、王の食卓に招くダビデ
・その私を、ご自身の食卓に招かれる神
= メフィボシェトという人物
1)ダビデが、メフィボシェトに向けた思い。
=1節:生き残りは「だれかいないか」
= 3節
=4節
= 「忠実を尽くしたい」「恵みを施したい」というダビデの熱意です。一節、三節、七節
・・・何度も繰り返されています。
= ダビデがこうしてメフィボシェテを見ている目、それが神が私たちを見つめている目。
・・・神は私たちを探し出す。どこにいるのか、どこに隠れているのか、見つけ出す、その熱意です。
=ルカの福音書15:1-7
a. 神の決意(「一匹を見つけ出すまで)
失われた一匹の羊を捜すイエスさまの姿には、まさにそういう集中、情熱、根気、決意があるではないですか。
・・・それが不思議なのです。それが独特なのです。
・・・それは、なぜそこまでして、と問わなければならないのです。
b. 神の愛
= 迷い出た羊のたとえをマタイによる福音書でみてみますと、迷い出たのは、小さいものの一つであったとあります。
・・・元々、動物の世界、迷い出るものは、弱々しい、病をもったもの。
= もっと不思議なのは、それが見つかったときに、これほど大喜びするか?(6-7節)
↓
・・・それは、一匹の羊を、かけがえもなく貴く大切に思っているからです。
2 ) 招かているメフィボシェト一一私たちの姿
=4節「ロ・デバル」という地に住んでいた。
=八節「この死んだ犬同然の私」
= でも、死んだ犬同然のメフィボシェトの心の中に、自暴自棄ではなく、愛を求める思いもあったことでしょう。
・・・もっと光りの当たる世界に生きてみたい、温かい人間関係がほしい、そんな思いもあったことでしょう。
3)ダビデがそこまでしてメフィボシェトを招くとき、それには一つの鍵があった。
1節「私は、ヨナタンのために、そのものに忠実を尽くしたい」。
I サムエル2 0 : 1 4 – 1 6
↓
ダビデは、契約に真実な人でした。
神の私たちに対する憐れみも忠実です、真実です。
そして、必ず、そこには鍵がある。一一イエス・キリスト
I ヨハネ3 : 2 6 「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。」
工ペソ2 : 4 – 6 「憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし… … キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に善かせてくださいました。」
= メフィボシェトが受ける祝福は、独特に表現されています。
7 節「あなたは、いつも私の食卓で食事をして良い」
・・・王の家族として、迎えられました。
・・・食事だけはないのです。王の息子として迎えられているのです。
=神は、キリストの故に、私たちを子どもとし、家族として、天の食卓に、天の王座につかせてくださる。
・・・ダビデは、ヨナタンの契約を覚えて、死んだ犬も同然なメフィボシェトを家族に迎えた。
・・・ 神は、キリストの十字架を覚えて、死んだ犬も同然な私たちを家族に迎えてくださる。
↓
それが神の真実です。意気込みです。
これが人生最大の賜物です。
= 1 3 節「メフィボシェトはエルサレムに住み、いつも王の食卓で食事をした。彼は両足がともになえていた」
・・・前半は彼が受けた特権、そして後半は彼がその特権を受けるにふさわしくない、価値なき者であったこと。
↓
本来ふさわしくないものが、神の都エルサレムに住み、いつも、いつも王の王であるイエス・キリストの食卓につくことを許されているのです。
この人生最大の賜物を喜ばずして、何を喜びましょう。
4)メフィボシェテには土地も与えられた。
・・・7節「あなたの父祖サウルの辞書を全部にあなたに返そう。」
・・・これが彼に与えられた賜物の一部です。