負い目、それはやがて神の御前に清算しなければならない罪であることを学びました。その赦しの土台はどこにあるのか。返しきれない負い目を赦されたゆえに赦しを祈る。2つのことを覚えたいのです。
赦しの土台、それは贖いです。贖いとは、負わなければならないものを肩代わりし、身代わりの代価をもって払うことです。レビ記の9章は、旧約の民に命じられたいけにえを教えています。全焼のいけにえ、罪のためのいけにえ、和解のいけにえ、穀物のささげもの。それらに手を置いて、私の代わりとして命の代価を払い、焼き尽くすことで献身を表し、共に食すことで交わりの回復を喜び、感謝をささげる。何度も何度も、繰り返す度に大きな犠牲が払われたことを目で見、贖いの恵みに思いを新たにする。
しかし、それでも人は形式的になり、その負い目の大きさと赦しの厳粛さを忘れてしまうのです。旧約の歴史はその繰り返しです。一方、新約のそれは、イエスの十字架です。ヘブル7章に「キリストは自分自身をささげ、ただ一度でこのことを成し遂げられたからです」とあるように、永遠の贖いをいただいたのが私たちです。
贖いは神の一方的な恵みによることです。お返しすることなどできません。ルカ7章には、「多くの罪は赦されている・・・それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」
と語られます。私たちが赦すには犠牲が伴います。この山上の説教で柔和を学びました。それは獣を手なずけることです。赦せぬ獣の心、それを赦しに換えるには、十字架のイエスの贖いの恵みと表裏一体です。だから、「私たちの負い目をお赦しください。私たちも・・・赦しました」と祈るのです。