「身代わりの傷」イザヤ53:4-6

 人生、山あり谷あり。しかしながら、一番の問題はどこへ向かっているのか、人生の目的・目標です。

 イザヤ書のこの箇所、「私たちは羊のようにさまよい」と言います。羊は群れでなければ生きていけない動物です。その羊がさまようということは、群れから離れてしまったということです。今の時代、どうしていいのかわからない。そういう人が増えました。社会にでられないという人もいれば、リタイヤした途端、居場所がなくなる人もいます。いい悪いは別として、戦中派の人は教育勅語という柱がありました。戦後は豊かになるという目標がありました。それで生きてこれたのです。しかし今や群れはバラバラ、命の目標や目的を見いだせずさまよう人ばかりです。

 また「自分勝手な道に向かって行った」と言います。最初の人、アダムとエバには自分勝手などありませんでした。神は園の中央の木の実を取って食べてはならないと命じました。それは神を愛し従うしるしでした。ところが彼らは「神のようになる」と誘惑されます。それは神より私。何もかも思い通りにすることです。ここ言うところの自分勝手とはそういうことです。羊飼いである神に導かれて生きるべき者が自分勝手。神との間も、人と人の間も断絶です。

 イザヤが預言したイエスの苦しみ、それは信じない者にとっては何の意味も持たず、神に打たれ、苦しんだとしか受け取れません。しかし、信じる者にとっては、それは神の愛のしるし、救いのしるしです。1ヨハネ4章に「ここに愛があるのです・・・神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」とあるように、愛を受けて、愛を新しい目的・目標に私たちは生きる恵みに入れられたのです。