「進むのか戻るのか」民数記13:1-3, 17-14:12

 エジプトでの奴隷から贖い出され、シナイで新しい契約をいただき、イスラエルの民は「祭司の王国、聖なる国民」として生きるべき備えがされて、今、乳と蜜の流れる約束の地へと進もうとしています。民数記の始めに民の数が数えられ、戦に出ることができる20歳以上の男子が60万強。幕屋から雲が昇ると彼らは旅立ちました。
 カデシュ・バルネヤから主の命ににより、彼らは各部族から一人ずつ、12人がカナンの地の偵察に遣わされます。彼らは確かに乳と蜜の流れる素晴らしい地であることを報告します。荒野を旅してマナばかり食べていた彼らにはことさら素晴らしく見えたことでしょう。カレブは上って占領しようと言うのですが、他の者たちはその地には強い民、城壁のある町があって、攻め取れない。エジプトに帰る方がよいと言い出すのです。
 このことばを聞くとモーセとアロンはひれ伏します。進むのか戻るのか問われるときにカレブとヨシュアは主への信仰、主への信頼をもって進もうと言うのですが、民は受け入れません。なお主はこの民を打つと言われます。モーセの必死のとりなしに赦しをいただくのですが、主はカレブとヨシュアを除いてはその地に入れないと宣告を下します。
 注目すべきは、民の拒絶に「主の栄光が会見の天幕からすべてのイスラエルの子らに現れた。」とあります。幕屋に留まる主の栄光が現れたときに、みんながではなく、ひとりひとりが問われるのです。もう一つは、進むのか戻るのか、主がエジプトから贖い出したのは「祭司の王国、聖なる国民」とするため、つまり神の民となることです。カナンに入ることが目的ではありません。人はしばしば手段と目的を間違えます。すべてのことは過程であり手段です。ゴールは神を喜び、そのみこころに従って神と共に歩むことです。目の前のことを超えて大切なことを見極めましょう。