先日、改めて考えさせられたことがあります。私たちは何気なく、「たまたま」という言葉を使うことがあります。一方で、「神さまが導いてくださって」ということばも使います。タイミングというのは不思議なもので、私たちの意思や考えや計画とは別のところにことが動くということがあります。
それをどう捉えているのか。とっさに心によぎる言葉は、私たちの隠れた本心を表すものです。一大事!と思うようなことについては神の導きを求め、「たまたま」なんて言葉は使いません。しかし、日常の些末なことには、考えもなくこう口にしたりするように思うのです。そして、ことがうまく働くと「たまたま」に加えて、「運よく」とか、「ラッキー」などと言ったりするのです。
それは、実のところ、私たちの信仰の姿勢を表しているように探られたのです。神さまを知らないならば、「たまたま、運良く、ラッキー」、まさにその通りです。しかし、神に生かされている私たちにとっては、すべてのことが神のご配慮の中に導かれていることのはずです。何も考えないでこう口にすることは、実に人間中心のお気楽、楽観的なものの見方をしていることであって、そこには、神への感謝も生まれず、実に貧しい生き方に過ぎないと反省しきりです。
そして、私は思うのです。おそらく、長年染みついてきた、しかも、自分だけではなく、代々親に育てられてそこから受けたものの考え方、周囲から受ける影響を私たちは色濃く受けています。ですから、これは「いかん」と気付いて、心改めることが大切なんだろうと。そして、もっと、神に親しみ、それはみことばの中から気付かされること、教会の交わりの中で互いに教え合うことが大切なんだろうと。そこから、にじみ出る品性というもの、恵みを喜び、感謝にあふれる人にさせてくださいと祈る祈りに導かれて歩みたいと願わされました。