今、みことばの光の聖書日課であるこれらの書の背景にあるのは捕囚とその解放という出来事です。ちょうど先週学んだアブラハム契約。その中心は彼とその子孫を神の選びの民とすることでした。シナイ契約を通して選びの民が歩むべき道を律法を通してお示しになりましたが、イスラエルは神に従わず、偶像礼拝に逸れてしましました。
神は預言者を遣わして、神に立ち返るよう呼びかけたにもかかわらず、拒み続けた選びの民を悔い改めに導くために神がなさったのが捕囚でした。バビロニアによって国は攻め取られ、都エルサレムは陥落し、民は捕囚として引いて行かれました。そこで彼らはバビロンに仕えることを求められました。捕囚期を背景としているのがエステル記です。異国の王に仕える憂き目の中で、彼らは断食と祈りを通して信仰の復興に導かれます。本来ならばさばかれ滅ぼされてもしかるべき民を神はご契約のゆえに導き続けておられるのです。
大きな勢力を誇ったバビロニアはさらにペルシャ帝国に飲み込まれていきます。国が大きくなると全土を治めることは簡単ではありません。バビロニアは捕囚にして属国を骨抜きにする政策でしたが、ペルシャは属国のある程度の自治を認める政策に変換しました。それでイスラエルは再び祖国復興に導かれました。捕囚からの解放です。第二の出エジプトとも呼ばれます。背後には世界を治める神の御手があります。それがエズラ記、ネヘミヤ記の背景です。
これらのすべてにいつも神の契約が流れています。それがゆえに見捨てられることは決してないのです。いのちを問われるような経験、自分ではどうにもままならないような経験、そのような危機を通らないと人は「どうにかやれる」と勘違いをし、へりくだって神に求めることをしなくなります。しかし、困難と危機が彼らを神に立ち返らせる。そして、神はご真実を尽くしてくださるのです。