哀歌に聞く慰めのことば

 毎週祈祷会では、旧約聖書を1章ずつ読み学んでいます。今、エレミヤ書を読み終えて哀歌です。エレミヤ書はユダの末期、バビロンに攻めとられて都エルサレムが陥落し、王は捕らえられ、民は捕囚にされたところ。哀歌はその嘆きの歌、ヘブル後のアルファベット22文字のイロハ歌になっています。
 実に、私たちは滅び失せなかった。主のあわれみが尽きないからだ。…主は、いつまでも見放してはおられない。主は、たとえ悲しみを与えたとしても、その豊かな恵みによって、人をあわれまれる。主が人の子らを、意味もなく、苦しめ悩ませることはない。(3:22, 31-33)
 このようなことばがでてきます。アブラハムに与えられた契約、それは契約を果たし得ない人への神の恵みであり、神は必ずその恵みの責務を果たしてくださると学びました。その通り、滅び失せてもしかるべき不実を繰り返したのがイスラエルです。それを捕囚という苦しみの中でへりくだって思い返すのです。そして、今の苦しみは意味ないことではないと言うのです。
 これは私たちにとっての大きな慰めです。苦しみと悩みを受けてきたこと、受けていること、それは神が必ず私たちに与えようとしている恵みとあわれみに心を向けさせようとしてくださっている。悲しみ悩みの経験を通らなければわからないことがあるのです。
 そして、同じ3章には「主を待ち望む」ということばが繰り返しでてきます。今は、まだ解決はしていない。でも、主のあわれみに望みをつなぐのです。人は希望があれば生きていけます。それをなくして絶望に覆われたら進んでいけません。誰がわかってくれなくても、今が苦しくても、出口が見えなくても、主が必ずあわれんでくださる。その時を待ち望み、前を向いて進んでいける。これは信仰者にとっての大きな慰めです。祈祷会のみことばのわかち合いでした。