キリストの平和を心に

 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3:15)のみことばをともに学んでから、ずっと心に響き続けています。一方、それに抵抗を覚えているのが、「我が思い」です。パウロが語る古い人が新しい人を着ても内側からそれをかなぐり捨てるように顔をのぞかせます。だからこそ、「新しい人になる」という導きをいただいているのですが。
 アドベントを過ごしながら師走を迎え、身の周りもさっぱりと整えて一年を閉じ、新しい年を迎えたいと思います。そのためには整理をつけて捨てなければならないものがあります。新しいものを迎え入れるためには、場を開けなければならないからです。いつか使うだろうと思いながらも何年も使っていないものがあります。とりあえずと置いたまま、気がつけば開けずに積まれたままのものがあります。何があるかさえわかりません。
 心の中の思いもまったく同じです。古い思いを整理つけずに置きっぱなしのもの、捨てきれないとこだわっているものがあります。とりわけ傷あるものほどやっかいです。あんなことされた。こんなこと言われた。かさぶたをはがすと内がぐちゅぐちゅして、再びかさぶたになって、それをはがしと何度もそれを繰り返します。一方でそれがある限り、古い人がのさばり続け、キリストの平和を迎え入れる妨げになり続けます。どのようにして捨てることができるでしょうか。
 みことばの教えは「平和の君」であるイエス様の支配です。もはや私は十字架で死んでくださったキリストのものと明け渡すことです。脱いだり着たり、あるいは捨てたり入れたりではない。すべてを明け渡さない限り支配はありません。別のことばで言えば献身です。その始まりはマリヤ。「どうかおことば通りこの身になりますように。」アドベントの残り2週間、ともに神の問いかけを聞きたいと思います。