「いのちの目的」ヨハネ19:17-30

 イエス様の十字架、その最期は「完了した」ということばで霊をゆだねられました。「成し遂げられた、終わった」とも訳されることばですが、それはイエス様がご自身の人としての使命を終えたいわば、いのちの目的です。イザヤ書の預言では、「彼は自分のたましいの 激しい苦しみのあとを見て、満足する。」(53:11)とあります。
 私たちのいのちは三位一体の神のかたちに作られました。父、子、聖霊の三位格でありながら、愛によって一つなのが神です。私たちはそのかたち、「自分で考え、自分で決め、自分で行動する」人格を持ちながら、愛し合って一つになって神を喜ぶようにいのち与えられたのです。その象徴は裸であっても恥ずかしくない。全く一つなので、隠すところが一つもない。そのような愛に結ばれた一致があったのです。そして、人の本当の満たしはここにあるのです。
 ところが、神から離れた罪ゆえに、人は愛から遠ざかってしまいました。私たちは今、旧約聖書を学んでいますが、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(ヤコブ1:15)とあるように、いのちの本来の目的を失うと、人は誰かを犠牲にし、己の欲に従って生きる「失われた人」になってしまう姿を繰り返し聖書は伝えています。
 イエス様は十字架でいのちを捨てます。そこにはゲッセマネの園での祈りの闘いがありました。「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのままをなさってください。」と祈られた祈りは愛の格闘です。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)という愛を自ら与えて、神から離れた「失われた人」から神の元に引き戻してくださったのです。そして、もう一度、「自ら喜んで愛する人」として生きることが私たちのいのちの目的です。十字架のイエス様に示された愛にいのちをかけてお従いしましょう。