ウクライナの戦闘が止むことなく、ますます激しさを増し、多くの死者がでています。町が破壊され、家を失い、電気や水と食べ物などのライフラインを寸断され、ここに留まるもままならず、故郷を捨てて逃げ惑う人たちの姿にどうすることもできないもどかしさも覚えます。これが自分たちの町だったらどうかと重ねると心痛み、また、どうしたらいいのか途方に暮れながらも、今日を生きなければならない。
今のことだけを見ると、ロシアの一方的な侵攻とだけ映ります。一方、過去に視点を移すなら、ロシアとウクライナは同じ民族。国で隔てられていても相互に肉親がいる兄弟。世界を巻き込んでまで武力に訴えるのは、自国の思惑を通す大義ですが、ウクライナ国内もまた、親ロシアと親EUと一つではありません。国と民族と過去の歴史とが複雑に絡み合う、私たちが理解することが困難な事情がそこにあります。
一方、それは小さな家族の営みでも同じです。離れて暮らしていても、一緒に暮らしていても関係と過去、「言った言われた、したされた」こと、「あの人にはこうなのに、私にはこう」というような比較。それは簡単には割り切れず、なかなか自由になれません。
「そこには、ギリシア人もユダヤ人もなく、割礼のある者もない者も、未開の人も、スキタイ人も、奴隷も自由人もありません。キリストがすべてであり、すべてのうちにおられるのです。」コロサイ 3:11
これは私たちが共に学んできたキリストにある新しい人です。
心痛める世界の中にあって、やがて来たるべき天ですべてが新しくされる時を待ち望みつつ、今の世にも、キリストにある赦しと回復と理解と互いを支える愛が与えられることを、複雑に絡み合った糸をほぐして道が導かれるように、主の主、王の王であられるお方にともに祈りましょう。