戦争、疫病、震災をして祈る

 ロシアのウクライナ侵攻のニュースが連日報道されています。また、SNSを通じてナマの声を聞き、もし自分がその場にいたらどうするだろうかと問われます。安全というものは信頼によってのみ成り立つものです。どんなに厳重に鍵をしても、防犯システムで監視しても力づくでくぐり抜けてしまいます。対抗するための抑止力、その競争はますます相手を信用できない思いを増長させます。
 バベルは散ることで争いを分散させるせめてもの神の配慮でした。しかし、航海術は植民地支配を生み、飛行機は世界大戦を生みました。散らされた世界はその覇権を巡って再び争い合っています。二度の世界大戦後、核の脅威をまざまざと見ながらも、その力をして抑止力という名の脅し合いが止むことはありません。北朝鮮の度重なるミサイル発射がその象徴です。「これじゃダメだ」という声が上がっても、信頼できない互いは己の主張の繰り返しが続き、悲しみの歴史は世代を経ると忘れられてしまいます。
 コロナもまだ視界不良。先行きがわかりません。そして、今週は東日本大震災から11年を迎えます。その後も各地で重なる震災や水害、あるいは海外で起こった津波や噴火。人の世を揺るがす出来事は世界のどこかで絶え間なく起こっています。
 『もし、さばきの剣、疫病、飢饉などのわざわいが私たちを襲うなら、私たちはこの宮の前、あなたの御前に立ちます。あなたの御名がこの宮にあるからです。そして、私たちは苦難の中からあなたに叫びます。あなたは聞いて、お救いくださいます。』2歴代誌20:9
 何を祈るべきでしょうか。人の世が互いを信頼できない罪の世への嘆きととりなし。国のリーダー、世界のリーダーたちが信頼と愛をもって互いの声に耳を傾けること。犠牲になる弱い者、女性や子どもたちの守り。憎しみの連鎖を打ち破る赦し。そして、自らの内にある罪の悔い改め。ともに祈りましょう。