先週、鍵をなくして捜し回り、自宅と教会の間を3往復しました。しょっちゅう捜し物ばかりしている私はいつも身に付けている「財布・鍵・携帯」の3点セットを常に確認しています。それにもかかわらずです。こういうときは、最後に見たときからの行動を思い出して順に「再現」します。まず、行動中にポッと置きそうな場所をすべてチェック。「なし」。おそらく教会を出るときに、ポケットに入れた3点セット。最後に入れた鍵はポケットに半分しか入らず、どこかに落ちた…クルマに荷物を積むために教会前にクルマを駐めた…。「ありました!」落とした鍵を拾った人がいたのでしょう。あの祠の低いフェンスのところに。その直後、K姉がなくしものをして困り、「祈ってください」と。そして10日後、無事に発見。手を叩いて、喜び合いました。
なくしものを見つけた喜びは、スカッと沈んでいた心が晴れやかになり、もう悲しむことも、いらだつことも、後悔も、すべてが吹き飛んでしまいます。
聖書の中にも捜し物のたとえがあります。
また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。(ルカ15:8-9)
そして、続く話は放蕩息子のたとえ話です。「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから。」(同15:24)
神のみ思いは罪ゆえに失われた人に対してずっと抱えている切なる思いです。それがゆえにひとり子さえお送りくださり、回復の時を待っておられる。そして、神のもとへ帰ったならば、大喜びで迎えてくださる。私たちは神にとって、とっても大切なさがしものなのです。