失しものをしたとき

 いったいいままで何回失しものをしただろうか。そして、捜しものにどれだけの時間を費やしてきただろうか。むだな時間を過ごしてきたんじゃないだろうか。そんなことをときどき思うのです。

 先日、S兄と登山をしました。こともあろうに、気がつくとカメラがないのです。すぐにわかりました。ザックのベルトに通しておいたのですが、休憩時に外して、そのまま置き忘れてきたのです。それは歩き始めて約20分、気がついたその場所からは往復3時間はかかる場所です。取りに戻ったら今日の計画は大幅に狂い、せっかく楽しみにしているS兄に悪い。帰りに探すことにして、足を進めることにしたのです。

 頭に浮かぶのは、雌ロバを捜しに行ったサウルのことです。サムエルから王として任職されるときのことです。方々捜し歩いても見つからず、「三日前にいなくなったあなたの雌ろばについては、もう気にかけないように。あれは見つかっています。」(1サムエル9:20)と言われるのです。私のカメラは見つかっているだろうか?そのままそこに置いてあるだろうか?持っていかれちゃいないだろうか?親切な人が小屋にでも届けてくれているだろうか?

 カメラはともかく大事な写真が残っているのです。みことばを思い巡らしながら、祈りつつの帰途、もう一度その場所に行くとない。上りの山小屋に電話するもない。下りていくと3件山小屋があるのですが、順に尋ねると一件目ない。二件目にもなし。しかし、最後の山小屋に届いていました。

 失しもの。生き死ににかかわるようなことでもない。人生のほんの小さなこと。でも、そんなささいなことの連続が私たち。そしてそこにも主がともにおられること、守られていることを覚えさせられました。