ここのところ、立て続けに数台のスマホのバッテリーを交換したり修理をしたりしました。一番先に気がついたのは、老眼が進んだこと(笑)。スマホは機械式の腕時計と並んで世界で最も小さなネジが使われています。時計職人はルーペを使って超精密な部品を分解したり組み立てます。それ以前に部品を精緻に造るには高度な加工技術が必要です。ですから、そのような時計は非常に高価です。
時計の目的は「現在の時刻を正確に知る」こと。私は腕につけることが気になって煩わしいので腕時計をしません。活動場所には掛け時計や置き時計がありますし、スマホを時計代わりに使っています。それで機能は十分!歩数計や活動量計、スマートウオッチを使っている人も最近はよく見かけます。
そんな時代ですが、高価な腕時計をしている人もいます。それはおしゃれです。あるいは高価なモノを持っているというステータスでしょう。考えてみれば、私たちが身に着けているもの、どんな基準で選んでいるのかといえば、実用だけではありません。時と場所に合わせてそれにふさわしく整えます。また、何を着るのか、何を身に着けるのかはその人の価値観が表れるところでしょう。
聖書の中で身に着けるもののうち、最も美しく高価なものは祭司の祭服です。それは最高のものをもって神の御前に出るにふさわしくあるためです。私たちは万人祭司。誰もがいつでも神の御前を生きています。だからこそ、内なる人も外なる人も、いつも主の御前にあるにふさわしく整えているのかに気を配りたいと思うのです。
「あなたがたの飾りは…外面的なものであってはいけません。むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人を飾りとしなさい。それこそ、神の御前で価値あるものです。」
(1ペテロ3:3-4)