教会が教会であるために

コロナ感染もようやく静まってきて、徐々に教会堂に集まれるようになってくるかと思っていた矢先、わずか一週間ほどで急激な感染者の増加ととも第七波となっています。すでに感染者の累計は1000万人を越え、国民の10人に1人。世代や行動範囲によっては罹患していないことが幸いという状況です。
コロナ禍は一時的。こんなに長引くとは誰も思っていませんでした。コロナ前から会堂に来ることが困難な兄姉のためにオンライン礼拝の可能性を試していた私たちは緊急避難的にオンライン礼拝に移行し、その後も続けています。自分の行動範囲や職場の要請、持病などをそれぞれ判断して、今、会堂に集っているのは5-6割というところです。
オンラインの礼拝、今、私たちのスタイルはyoutubeですから一方通行です。そうすると礼拝は参加するものであるより視聴するものにすり替わってしまいやすい傾向をもっています。そして、視聴するものならば、「この礼拝」であることの意味が曖昧になります。どこの礼拝を見ても変わりなく、一週間に一度礼拝を見た(だけ)の教会生活になりはしないでしょうか。海外日本人教会は群れが小さく牧師がいないために、古くはカセットテープ、今はビデオでメッセージを聞く礼拝をしていると聞きます。ひとところに集まり、それを分かち合い、ともに祈るのです。
教会が教会であるために必要なことが問われているように思います。それはキリストのからだ、神の家族として共に生きること、主にある交わりをすることです。どのようにして今の状況の中でできるのか。「交わり祈り会」もその一つ、「礼拝のメッセージメモ」もその一つ。これが決定打というものはなかなかなく、うまくいかないこともしばしですが、今しばらく続くコロナ禍の中にあって、そして、コロナ後になってもそのための工夫を続けて行きたいと願っています。