数えてみよわが栄光?リア充の誇り

 祈祷会では、エズラ記・ネヘミヤ記を学んでいます。70年の捕囚を解かれて故国の再建を導かれた民。その喜びと感謝はいかばかりであったことでしょうか。エズラ記2章、ネヘミヤ記の7章には帰還民のリストと総計が記されています。聖書にはこのようなリストがいくつかあります。私たちはそれを読むとき、その意味が感じられず、一応飛ばさず読んだりしますが、往々にしてそれは聖書通読したという満足のためであったりします。今改めてその意味を考えてみたいのです。

 私たちにはなじみのない名前の羅列が続きます。しかしユダヤ人にとってはどうでしょうか。今なお、ユダヤ系の名前は代々受け継がれて残っています。ことさら、聖書の時代の人たちにとっては自分のルーツを確認する意味深いものだったでしょう。先祖譲りの相続地を持つ彼らです。また、記録は事実の裏付け、証拠や証明として意味を持ちます。確かな記録がそれを担保するのです。

 そして最も大切なことは、「数えてみよ主の恵み」と私たちが歌うように、主の恵みを数えて主を讃えるためです。そして、それは後代にまで語り伝えられるのです。

 一方でそこには微妙な罠が隠れています。ダビデの晩年、彼は人口調査をして主のみこころを損ない、悔い改めを迫られます。それはいつの間にか「数えてみよわが栄光」にすり替わったからです。これは私たちが数を数えるときに必ず入り込む思いです。そんなことはないと言うならば、偽りです。残念なことに私たちはそのような思いに決して無縁でいることはできないでしょう。若い人のことばで言えば「リア充」の誇りです。

 問題はそれを正しくわきまえているかどうかです。主よ。わが誇りを取り除き、ただ、主の恵みを感謝するものとさせてください。そう祈りのうちにありましょう。