礼拝をいいかげんしない

 列王記には歴代の王たち、また国としてのイスラエルとユダのあり方が出てきます。その中で、「高きところを取り除かなかった」ことが度々記されています。なぜ、こんなにもそのことが強調して書かれているのか探られ、考えてみました。

 彼らが礼拝すべき場所は幕屋でした。幕屋の至聖所には垂れ幕があって、そこには大祭司が血の犠牲を携えてでなければ入れない、そのような場所でした。罪ある人はきよい神の御前に立つことができない。厳然たる境がそこにはあるのです。そしてその境を取り払われたのは、十字架のイエスの血によるものでした。神の愛ゆえに、尊い犠牲ゆえに、本来立つことのできない神の御前に立つことを許されているのが私たちです。

 「高きところ」は、彼らの中で異教の神々にささげた場所でした。偶像やモーセの作った青銅の蛇が置かれていました。幕屋へ行かなくても礼拝できる。時間と場所を取り分けなくても礼拝できる。それはあまりにも安易なことだったではないでしょうか。ただおひとりの神を、尊い贖いをもって赦されて礼拝する。そのきよさに対する意識がいいかげんに扱われたのです。結果は信仰は弱まり、国が滅び、苦しみを経なければなりませんでした。度々記されているのは、それが覚えられるべきことであることだからでしょう。

 さて、私たちの礼拝も聖なる神の御前に立つという意識がいいかげんになってはいないだろうかと省み、常に身を整えなければならないと思うのです。それぞれ礼拝していればなどと考えるのは、罪の深さと神の聖さに対する恐れの欠如です。身を整え、休まない、遅れない、だらだらしないことです。ときにそう思えないこともありましょう。そんなときこそ、襟を正すのです。それこそ、私たちが求められていることではないでしょうか。