聖書の人物像というのは様々です。気性の激しいペテロのような人もいれば、若くて少々気の弱そうなテモテもいる。雄弁なアポロもいれば、筆は立っても見た目は弱々しく見えると言われるパウロ~そうだろうかとも思いますが~もいる。その中でも「慰めの子」と呼ばれるのがバルナバ(本名ヨセフ)です。回心したサウロ(パウロ)を誰も受け入れない中で引き受けて、弟子たちを説得するのです。
そのバルナバはパウロとともに行動し、二人はアンテオケの教会から第一回目の伝道旅行へと遣わされます。再び彼らが遣わされるときのこと、先の伝道旅行の途上で厳しい迫害などに恐れをなしたのか戦線離脱をしたマルコを連れて行くか行かないかで「激しい議論」、前の訳では「激しい反目」、新共同訳では「意見が激しく衝突」と呼ばれるようなことになり、二人は別行動を取るのです。慰めの子をしても説得できませんでした。結果的には、二人が別行動をとったことが、より多くの場所に福音が伝えられることになり、また、マルコはバルナバによって慰められ、立たせられて後にパウロも認め信頼するようになります。その時には目の前のことしか見えませんが、後々に神の計らいによって、このこともまた無駄にはなりませんでした。
さて私たちです。同じことが起こります。しばらく前にアディアフォラということばを学びました。私たちにとって「信仰の事態」、決して譲ることのできない事柄と、どう判断していいのか迷う事柄があります。そこには意見の違いが起こるのです。それはどう解決するのか。後になってようやく振り返って「こうだったのか」と思うように導かれることが少なくありません。
私たちは、過去に起こった出来事を振り返って学ばなければなりません。そして、すべては無駄な時間や議論ではなく、尊い学びになっていることを共有したいと思います。