神は近くにおられる

 イエスは、自ら試みを受けて苦しまれたからこそ、試みられている者たちを助けることができるのです。(ヘブル2:18)
 この世界には理不尽なこと、不条理なことが溢れています。「正直者が馬鹿を見る」ということわざあり、徒花(あだばな)とか、「水泡に帰す」とか、報われないはかなさを表すことばもたくさんあります。
 誰しもが裸で生まれてきます。何も持たず、ただ求めることは、守られている安心と心地よく、お腹が満たされるという充足。ただそれだけです。そして、どんな人であっても、心の奥底の求めというものは、いくつになっても変わりはしないと思うのです。
 ところが、それが歪められるのは、いのちを与えてくださった神から離れているからです。欲は欲を生み、「もっともっと」と駆り立てて、ザルで水を汲むように、汲んでも組んでも抜け落ちていきます。思うものすべてを手にした伝道者は「すべてはむなしい」と言います。欲はまた、自分のことだけを求めます。ですから強い者が力を握りしめ、弱い者が虐げられます。尊いはずのいのちが軽んじられ、痛みと悲しみが世を覆うのです。誰がわかってくれるだろうか。誰もわかってくれないと思ったら、そこには絶望が覆います。
 イエス様の受難、それは、その神から離れた人の罪の歪みすべてを十字架上で負ってくださる神の愛です。すべての苦しみを知っておられるのです。誤解、嫉妬、差別、虐待、いやがらせ、いじめ、脅迫、圧迫、圧力。ありとあらゆる理不尽な苦しみ、そして、肉体の痛み。十字架は、人の受けるどんな苦しみよりも酷い苦しみを主は負われたのです。そして、それを耐え忍んで打ち勝たれたのです。しかも、ご自身に何も責められるところなどないにもかかわらず。ですから、私たちが痛むとき、主はともにおられます。私たちの罪を背負い、贖いのために明け渡し、すべてを知っておられるからです。