「わたしはキリストのものだ」というとき

「わたしはキリストのものだ」というとき
「わたしは救われた!」と叫ぶのではない。
「迷って、この道にたどりついた」とささやくのだ。

「わたしはキリストのものだ」というとき
胸をはって誇るのではない。
つまずき、導きが必要なことを告白しているのだ。

「わたしはキリストのものだ」というとき
強い自分を見せたいのではない。
わたしの弱さを認め、力を与えたまえ、と祈るのだ。

「わたしはキリストのものだ」というとき
成功を自慢しているのではない。
事実、わたしは失敗し、借りすら返せないのだ。

「わたしはキリストのものだ」というとき
完全だ、と主張するのではない。
わたしの欠点はあまりにも明らかであるが、神はそれでも価値を認めてくださるという。

「わたしはキリストのものだ」というとき
いまだに心の痛みを感じる。
この痛みこそ、神の名を呼び求める理由である。

「わたしはキリストのものだ」というとき
他人を裁こうとは思わない。
そんな権威はない。わたしは、ただ神に愛されているだけである。

キャロル・ウィンマー