「ソロモンの祈りと主のことば」1列王記8:22-30

 ソロモンは7年かかって荘厳な神殿を建てました。その奉献式、その祈りがこの箇所です。ソロモンは「…あなたは、心を尽くして御前に歩むあなたのしもべたちに対し、契約と恵みを守られる方です」と主を讃えます。その契約とはアブラハムから始まる神の民との契約。罪深い人を、百年、千年というスケール、恵みは千代までと果たされるお方であることに畏敬をもって祈りを始めます。
 そして、神殿の奉献式でありながら、その主は「ここにお入れすることはできません。」と言い、一方で、ここで祈る祈りに耳を傾けてくださいと祈ります。神殿は祈りの家です。そしてその神殿の幕は十字架とともに真っ二つに裂けました。キリストのゆえに私たちは「聖霊の宮」として、神の神殿ならぬ祈りの人となることが求められているのです。
 ソロモンは祈りを続けますが、これから起こるであろう災い、飢饉が起こる、敵に打ち負かされる。病気になる、そのようなときに「心に痛みを知って」主に立ち返るならと祈ります。それは放蕩息子と同じです。そして、「罪に陥らない人は一人もいません。」と告白します。一国の王として祈る祈りですが、神の御前には心の中の罪こそが取り扱われる最も大切なことであることをわきまえていました。
 さらにソロモンの祈りは自分たちのことに留まりません。異国人と呼ばれる約束の民から外れた者たちのためにもとりなし祈ります。「地上のあらゆる民が御名を知り、あなたの民イスラエルと同じようにあなたを恐れるようになり、私が建てたこの宮で御名が呼び求められなければならないことを知るでしょう。」それはアブラハムの召しから始まる選びが神の恵みの先駆けの器のとされたことをわきまえるのです。そして、すべてが神の御名のための祈りです。祈りの向かうところ、「私のための神」なのか、「神のための私」なのか、私たちも祈りの心をみこころに合わせましょう。