「奥義であるキリスト」コロサイ1:24-29

 パウロは「 今、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。」(24)と言います。それは、福音を伝え,教会に仕えるために受けている苦しみです。私たちは、ことがスラスラ、うまく行っているとき、恵みに感謝し、新たに学ぶことはほとんどありません。うまく行かないとき、失敗したとき、苦しみを受けたとき、苦しみの数だけ、私たちは自分たちが何ほどのものでもないことを知ります。そして、神の恵みに目を開かれて、感謝と喜びを見いだすものです。
 続いて、「私は、キリストのからだ、すなわち教会のために、自分の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。」と言います。どんなことでもできるお方がただ一つ、できないことがあります。それは他の誰かになること、乗っ取ることなどできません。キリストのからだである教会、その交わりにおいて、この私という一人は、欠けることのできない、パズルで言えば、1ピースなのです。そこに使命と役割があり、それをして欠けを満たすのです。
 それは奥義を伝えるため。奥義とは、一般には極める、特別に伝授されるものという意味を持ちます。一方、聖書で言う奥義とは、誰でも受け取れる神の恵み。かつては選びの民イスラエルにのみ導かれたことが、キリストの救いを通して、異邦人に、そして全世界の誰であってもいただけるものとなった。そして、私たちの破れた交わりを和解に導いてくださった。そのために、十字架の死までも受けてくださった。
 それならば、どうしてもその奥義を伝えたいというのがパウロの願いです。これより素晴らしいものはない!これほどに素晴らしいものをいただいたのであれば、ぜひ、伝えたい。あなたにもわかって欲しい。この思いをもってパウロは「労苦しながら奮闘しています」と言うのです。私たちもこの恵みを確信し、また、証し伝えていこうではありませんか。