「責められても」使徒6:8-7:60

 教会は前進するととともに様々な問題に直面しなければならなくなりました。ステパノが用いられれば用いられるほど、イエスがそうであったように妬まれ迫害されます。とうとうそれが襲って捕らえ、偽りの証人によって議会に連れ出されるようなことにまでなるのです。
 キリスト者になれば、困難や悩みなどみななくなるというのは神話です。むしろいままでの殻を破って前進するための困難に直面することは主の訓練でしょう。黙示録には「熱くもなく、冷たくもない」ラオデキヤの教会に対しての厳しい叱責のことばが語られています。救われた者は神の栄光のために新しい生き方をするべきですが、自分の幸せ、自分の満足を求めることに終始してしまう弱さを私たちは抱えているのです。
 ステパノの証しはユダヤ人にとっての新たな歴史認識でした。アブラハムから始まって世々の民はいつも主に従うことよりも、自らの欲に従って偶像をつくり出し、主を否み続けてきたという悔い改めです。翻って今、私たちの国の歴史認識が問われているのではないでしょうか。大震災を通して改めて考えなければならないことがあるのではないでしょうか。自分のこと、自分の周りのことだけしか考えられない自己中心的な思いがかたちになって表れたのが社会の在り様です。それを私たちは今、問われているのです。
 殻を打ち破って新しい前進をするにために、私たちは今、自分自身の在り方をどうするかという挑戦を突きつけられているのではないでしょうか。責められたり、困難にあったりするとき、その時には苦しみが大きいのですが、むしろ新しく殻を破って前進する神の時として、主に頼り祈り、自分自身を献げようではありませんか。
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